東京・練馬にある中高一貫制の名門私立男子校、武蔵高校中学。開成中学・高校、麻布中学・高校とともに「男子御三家」と呼ばれ、かつては1学年で80人が東京大学に合格した実績もあるが、2000年代に入って低迷。だが、17年は東大に32人が進学して10年ぶりに30人台に回復した。旧制高校の伝統を継ぐ名門校を訪ねた。
「確かに東大合格者が回復してホッとした面はあります。20人を割って、5、6年前には“武蔵凋落”と言われましたから。ただ生徒には東大にこだわるのではなく、自分が学びたい大学に行ってほしいと話しています」。白い髭に長髪がトレードマーク、武蔵の梶取弘昌校長はこう語る。1学年の定員は160人で、以前は144人。かなり小規模な学校だが、かつての武蔵は東大に2人に1人が進学したわけだ。
いずれの有名進学校の校長も二言目には「東大にこだわっていない」と話すが、梶取校長は本音のようだ。梶取校長は武蔵の出身だが、歯科医の父親の反対を押し切って東京芸術大学を受験。2浪の末、声楽科に進み、音楽教師になった。開成、麻布の両校長もそれぞれの母校出身だが、いずれも東大出身だ。異色の校長といえそうだが、「まさに武蔵らしい先生」と同校関係者は話す。
では武蔵とはどんな学校なのか。1922年、日本初の私立7年制高校として誕生した。旧制高校時代のOBでは元首相の宮沢喜一氏が有名だ。「学問の自由」を掲げ、「自ら調べて自ら考える力」の育成に取り組んできた。現在も武蔵は「考える生徒」を積極的に受け入れるように工夫している。
武蔵高校中学の梶取弘昌校長
武蔵中学の入試問題は「開成と比べて難問奇問が多い」(進学塾関係者)といわれる。梶取校長は「決して小学校で教える範囲ははみ出していません。基礎的な知識をベースにして、自由な発想力や考える力があれば解けるようにしています。今の子供はクイズを解くような直感力に優れていたり、パターン練習には強いけど、武蔵の入試問題はそれでは解けないですね」という。
東大総長の五神真氏は武蔵高校出身だが、梶取校長が「なぜ武蔵を選んだのですか」と問うと、「入試問題が面白かったから」と答えたという。その後、五神氏は東大に進学して物理学者になった。東京工業大学学長の三島良直氏も武蔵出身で、東工大に進学した。
2016年にノーベル生理学・医学賞を受賞した東工大栄誉教授の大隅良典氏と受賞を祝うひな壇に並んだが、実は大隅氏の弟子で東大大学院教授の水島昇氏も同賞の候補として度々名前が挙がっていた。この水島氏も武蔵出身だ。東京医科歯科大学出身だが、医者の道を進まず、細胞のオートファジー(自食作用)の研究者に転じた。
梶取校長は「生徒には『いいオタクになれ』と言っています。ノーベル賞級の研究者は、寝ないで研究に没頭してオタクみたいな人が多いが、外部の人と議論したり、協力しないと研究は実らないでしょ」と話す。武蔵には、「いいオタク」になるための環境が整っているという。梶取校長に校内を案内してもらった。
同じ敷地内には武蔵大学もあり、面積は7万平方メートルと広大だ。深い緑の森に包まれ、小川や池もある。「メェー、メェー」とうるさい声が聞こえるので、左手を見ると中庭にヤギの小屋があった。「数学の先生の発案です。動物が生まれ、出産して死ぬ、『命の大切さ』を教えるのが狙い」という。
校舎を抜けると、広々とした人工芝の2つのグランドが見える。図書館も大きく、専門書が並んでいる。ところで職員室はどこですかと問うと、梶取校長は「職員室はないですね」と一言。「教員が集まって情報交換する控え室はありますが、そこに各教員の机はありません。各教員は英語、数学など学科ごとに分かれた研究室をベースにしています。これも旧制高校の名残なんです」と話す。
武蔵の最大の特長が旧制高校から継承した独自の校風だ。旧制高校というのは、現在の大学の教養課程に相当する高等教育機関。当然、職員室はなく研究が主体だ。武蔵の専任教師は約50人だが、いずれも専門分野のある研究好きな先生たちだという。生徒はそれぞれの研究室を訪ね、雑談したり、質問したりするが、専門分野の研究に目覚める生徒も少なくない。
校舎の屋上に面白いクラブがある。「太陽観測部」だ。約80年にわたり、太陽黒点の観測を続けており、狭い部室には10人前後の生徒が集まり、機器をいじっていた。高価な天体望遠鏡もある。
太陽観測部は、宇宙航空研究開発機構(JAXA)幹部を次々輩出している。「10年に(小惑星探査機の)『はやぶさ』が地球に戻ってきましたが、JAXAの3人の幹部がいずれも武蔵の太陽観測部の先輩後輩だったと話題になった。はやぶさのエンジン開発を主導した(JAXA宇宙科学研究所教授の)国中均さんは、本来はなくても構わないような部品を組み込んでいたそうなんです。それが奏功して戻れたというような話を聞きましたが、そんな発想が武蔵らしいなと感じましたね」と梶取校長は話す。
3人の進学先は、国中氏が京都大学、JAXA宇宙科学研究所教授の佐藤毅彦氏が東京理科大学、JAXA広報部長の庄司義和氏が一橋大学と別々だったが、その後、JAXAで再会した。庄司氏は「実は僕は文系だったんですが、土日も太陽を観測していましたね。毎日太陽観測していたのは全国でうちと諏訪清陵高校(長野県)ぐらいだったのでは」という。
世界的な研究者が次々飛び出している武蔵。東大以外の大学に進み、大きな研究成果を上げた卒業生も少なくない。ある武蔵OBは「中学の頃から好きな研究にはまる同級生もいたが、数学は得意でも、国語はダメという場合もある。それじゃ東大は受からない。ほかの進学校なら塾に行ってフォローするんでしょうが、そんな時間はムダだと、別の大学でいいやという人もいた」という。
武蔵の17年の進学実績は東大32人のほか、一橋大学10人、東工大8人など国公立大学は80人。ちなみに武蔵は合格実績を公表しないため、いずれも進学者数だ。1980年代や90年代は、東大合格ベストテンの常連校だったため、当時と比較するとさびしい数字だ。
ただ、開成と麻布の定員はそれぞれ400人、300人とほぼ倍の規模だ。梶取校長は「単純に比較されるととつらいですが、保護者の方もやはり東大合格者の数に目がゆく。以前の武蔵は自由放任でしたが、時代の流れに逆らえなくなった。今は受験に対しての面倒見もよくなりました」という。
事務室の前には大手進学塾のパンフレットも置かれている。ここ数年は業者の全国模試を校内でも実施している。「当初は武蔵らしくないと反発する生徒もいましたが、今は素直に受け入れる生徒が増えましたね」と梶取校長は苦笑いする。
少数教育の武蔵。国語ではゼミ形式を導入し、数学など主要科目では人数を絞って教師と生徒がやり取りする双方向型の授業を実践している。群馬県などの校外の施設も活用し、体験型の学習にも力を入れている。中学3年生は、ドイツ、フランス、韓国、中国語から1つの第2外国語が必修。高1からは自由選択だ。以前から英国やドイツ、フランスなどの提携校との生徒交流も活発だ。
「確かに東大はいい大学だけど、海外を含め親元を離れた大学にも行ってほしい。ただ、進学実績をもっと上げていかないといけない。武蔵の授業レベルを維持するためには、優秀な生徒に入学してもらわないと困りますから」という。「いいオタク」を輩出してきた武蔵。異色校長による復活の序曲が響き始めている。
(代慶達也)
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