名門進学校で実施されている、一見すると大学受験勉強にはまったく関係なさそうな授業を実況中継する本連載。第12回は東京の名門男子校「武蔵」を追う。
■「オレたち、なんでこんなことしてるんだろう?」
東京都練馬区にある私立武蔵高等学校中学校は、開成、麻布と並んで「御三家」と呼ばれる進学校である。
進学校でありながら、仏教漢文の暗唱、変体仮名の判読など、生徒が思わず「オレたち、なんでこんなことしてるんだろう?」とつぶやきたくなってしまうような授業がたくさんある。その筆頭として在校生の多くが挙げるのが、中1の「科学B」での「岩石薄片の作成と岩石・鉱物の偏光顕微鏡観察」という実験だ。授業を担当するのは川手新一教諭。理学の博士号も持っている。
「岩石薄片の作成と岩石・鉱物の偏光顕微鏡観察」とは要するに、顕微鏡で岩石を見てみようということ。
科学教材会社に注文すれば、岩石の薄片サンプルは簡単に手に入る。それを使えば、1時間で何十種類もの岩石の観察をすることができる。しかし武蔵にはこだわりがある。岩石を研磨して、薄片をプレパラートに固定するところから、自分たちで行うのだ。
そもそも自分たちが扱っている岩石が何なのか、生徒たちは知らない。薄片をつくり、観察し、それが何という岩石なのかを突き止めることが最終目的である。まるで科学ミステリーだ。
実験説明書の最後のページには「レポート提出期限:11月」とある。現在6月。この一連の実験におよそ半年をかけるのである。
■知識よりも科学実験の作法を学ぶことが大事
「80番の研磨はどうなるまでやるのが基準でしたっけ? 全体がざらざらになるまでだったよね。80番が終わったら、次、320番に行くんですけど、鉄板に付いている研磨剤は一度きれいに洗い流してください。80番の粉が残っていると、せっかく320番で磨いても、傷がついちゃいますからね。完全に洗い流してください。320番の基準は何でしたっけ?」
「滑らか!」
「全体が滑らかになることでしたよね。その次は1000番の研磨をします。1000番の研磨から、鉄板ではなくてガラス板の上で行います。ガラス板は水をかけて洗ったら、拭く必要はありません。濡れたまま1000番の研磨剤を振りかけて、ここにあるメノウで、研磨剤を全体にならしてください」
1000番の研磨の基準は、表面が全体に輝いて、蛍光灯に照らすと、表面に反射した蛍光灯の本数が確認できるくらいまで削ることだ。さらに2000番。表面で反射して、 外の景色が見えるくらいまで滑らかに仕上げる。
「窓際に持っていって外の光を反射させると、木の緑が映ります。端から端まできれいに見えたら、2000番OKです。ここでちょっと注意です。320番までは、岩石チップの表面を確認するときに、研磨剤を洗い流してから、ぞうきんで拭くようにと言ったのですけど、1000番までいったら、ぞうきんは使わないでください。ぞうきんに付いている小さなゴミで、せっかくきれいに研磨した表面に、傷が付いてしまいますから。1000番以上の研磨をした後に、岩石チップを拭くときは、キムワイプを使ってください」
キムワイプとは、科学実験用の紙ナプキンのようなものだ。
「キムワイプは、実験用の紙で、ティッシュペーパーと違って紙の繊維が出にくいんです」
「1度でいいから、それで鼻かんでみたい!」
生徒が冗談を言う。
■「なぜ?」をたくさん投げかける
「2000番までできたら、早い人は、貼り付けまでやってもらいます。2000番まで終わった岩石チップは、よく水洗いして、キムワイプで拭きます。そして以後、接着面は手で触りません。なんで?」
「指紋が付くから」
「指紋って何?」
「脂?」
「そう、手の脂が付いてしまいます。しっかりくっつけたつもりでも、脂のせいで、あとで剝がれちゃうかもしれません。触らない、汚さないだけじゃなくて、水分も完全に飛ばさなければいけません。なぜ?」
「剝がれるから」
「そういうことなんだけど、なぜ、剝がれる?」
「水蒸気……」
「水分は蒸発すると水蒸気になるよね。そうするとそれは泡になるでしょ。接着面に泡が入っちゃうと、剝がれる可能性が高まるでしょ。だから、水分を飛ばすために、120度くらいに設定したホットプレートの上に置いて、約5分間熱します」
このとき説明した各段取りでの注意点を、生徒たちがすべて覚えているとは思えない。しかし、ここで説明していることは、実は、作業の目的を考えれば、専門知識などなくてもわかることだ。だんだんときめの細かい研磨剤を使うのに、前の段階の研磨剤が残留していたら、傷になってしまうのは当たり前。手の脂が接着の邪魔になることも当たり前。水分を飛ばすために温めた岩石チップの温度が冷めきらないうちにプレパラートに接着してしまったほうが、より空気が混入しにくく好ましいということも、ちょっと考えればわかる。
だから、川手教諭は、「なぜ?」をたくさん投げかける。ただ説明書に書いてあるとおり作業するのではなく、理屈で理解して自分で判断できるようになってほしいのだ。
15分ほどで一通りの説明を終えて、作業に移る。鉄板やガラス板の上で、岩石チップを研磨する。地味な作業が続く。指先にどれくらいの力をかけるのがいいのか、手探りで作業を行う。「ざらざら」とか「滑らか」とか、かなりあいまいな表現だ。科学実験において、どういう状態が「ざらざら」で「滑らか」なのか、友達の作業と比べながら、身をもって知る。
きめの細かい研磨をかけて、つるつるになった岩石チップをなでて、「この感触気に入った!」と叫ぶ生徒もいる。蛍光灯に照らしてみて、「え、これ、本数見えてるの? 見えてないの?」と自分では判断できない生徒もたくさんいる。そしてやはり、やってはいけないと言われていたタブーを犯す生徒もいる。たくさんいる。だが、それも経験である。失敗から「なぜ?」を考えればいい。
■本物に触れる教育
指先の微妙な力加減、研磨面の滑らかさ、仕上がりを確認するときの微妙な角度と光の反射……すべてが生徒たちの感覚にしみ込む。
これが武蔵が旨とする「本物に触れる教育」だ。
科学教材を購入し、顕微鏡でのぞき込むだけでは、この感覚は得られない。ましてや、資料集で鉱物の拡大写真を見るだけでは、その宝石箱のような輝きと、鉱物の重さ、手触りなどのリアリティが結び付くはずもない。
これらの体験すべてが、生徒たちの体の中に原体験としてすり込まれ、発酵し、目には見えない教養となり、人生を豊かにしてくれるのだ。
「岩石薄片のプレパラートづくりに6~7週かけます。さらに観察で3~4週かけます」(川手教諭、以下同)
これを「効率が悪いマニアックな授業」と見るか、「教科書を読むだけではわからない貴重な体験を得られる授業」と見るか。前者と思うなら、武蔵には来ないほうがいいのかもしれない。
「最終的に、大人になって、何かを選んだり、決断したり、判断したりというときに、 『何かいかがわしい』というにおいを感じたり、『意図的に作られたもの』を見抜いたりする力が身に付いているかどうかなんですよね。そういう感覚を身に付けるためには、やっぱり泥臭いデータの積み上げをどれだけ経験しているかどうかが肝心なんだと思います」
理科によって養われるのは理科に限った能力ではない。本物と触れることで本物を見抜く力が養われるというのだ。
おおたとしまさ :育児・教育ジャーナリスト
東洋経済