“制服”“校則”なしで64年連続東大合格者トップテン! 日本一自由な学校「麻布中高」の学園紛争

週刊新潮 2017年9月21日号 から転載

 

日本一自由な学校「麻布中高」の「自由」の授け方――おおたとしまさ(上)

 戦後、東大合格者トップテンから一度も外れていない麻布中学校・高等学校。橋本龍太郎、 福田康夫の両元総理から前川喜平氏まで、OB人脈も華麗だが、 実は制服も校則もなく、生徒たちは日本一の自由を謳歌している。麻布ならではの学びは、その自由の中にあった。

 

 

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「革命」の瞬間を語るとき、「英雄(ヒーロー)」の表情は暗かった。それを見て、私は自分の浅はかさを悟った……。

 東京都港区にある麻布中学校・高等学校は「自由な学校」の代名詞として知られる。制服もなければ校則もない。不文律として「校内での鉄下駄は禁止。麻雀は禁止。授業中の出前は禁止」の3項目があるだけだ。場合によっては「全裸での外出禁止」が加わる。麻布がいかに自由であるかを表現するネタである。

 

 

 戦後、新制の中高一貫校になって迎え入れた生徒が卒業した1954年から現在まで、東大合格者数ランキングトップ10から一度も外れたことのない唯一の学校でもある。なのに一度もナンバーワンになっていないのが麻布らしいツメの甘さ。しかし、それがいい。下手にナンバーワンになって、「1番の学校だから」という理由で入学する生徒が増えると、麻布の校風が変わるリスクがある。

 

 さて、冒頭の「革命」とは、麻布が69年から71年にかけて経験した学園紛争を指す。当時、全国の高校で紛争が起き、そのほとんどが説得あるいは鎮圧される形で終わった。生徒側が「勝利」した希有な例が麻布の紛争である。

 

 このとき「誰かに定められた規律によらず、自ら定めた規律に従うときのみ、自由である」という理念が麻布に確立した。学園紛争はその「本当の自由」を勝ち取るための闘いだった。

「英雄」とは、麻布の学園紛争において、学校側と直接対峙した生徒の一人である。ここでは仮にA氏と呼ぼう。学園紛争の最中、生徒たちの投票によって、議長団に選ばれた。

 麻布生は入学すると早々に創立者・江原素六の人生、そして学園紛争についての話を聞かされる。恥ずかしながら私も麻布に学んだ者である。学園紛争を闘った先輩たちを「英雄」だと思い、いつか直接会って話をしてみたいと思っていた。

 

 

山内校長代行の恐怖政治

 60代半ば。背丈はさほど高くはないが、眼光は鋭い。私が『麻布学園の一〇〇年』をめくると、「これが私です」と写真を指して苦笑いする。71年11月13日の全校集会でマイクを握る山内一郎校長代行のすぐ背後に立ち、こわばった表情を見せる長髪の青年こそ、高校3年時のA氏である。

 

 時代は「70年安保闘争」の最中。69年1月の東大安田講堂事件、それにともなう東大入試の中止など、大学紛争の影響が高校にもおよんだ。中核派や革マル派などの「セクト」の流れをくむ「反戦高協」「反戦高連」といった高校生組織まで出現した。麻布の一部生徒にもその息がかかった。

 

 70年の建国記念日に、2・11粉砕闘争統一実行委員会(以下、統実委)を称する生徒たちが麻布の中庭から出発するデモを計画。藤瀬五郎校長がそれを認めなかったため、生徒たちが校長室を占拠した。

 

A氏は当時高校1年生だった。

 

 事態収束のために全校集会が開かれた。

 

「反戦高協と反戦高連は要するに中核と革マル。全校集会では彼らがいっしょになって壇上にいました。そんな雰囲気の中で統実委と生徒協議会と学校による話し合いが行われ、そこで確認されたのは意味のあることだったと思います。すべての活動は基本的に自由だと。しかし、学校の中でのことにはルールが必要だと。そのルールはみんなで話し合って決めなければならず、破った場合にも単に処分するのではなく、何らかの折衝のような形をとって解決しなければならないと。当時全国の高校で紛争がありましたが、あれだけ民主的な合意にこぎつけた例は珍しいと思います」

 

 しかし、藤瀬校長は混乱の責任をとる形で辞任した。

「藤瀬校長に辞任を迫ったのが理事会の山内一郎だったようで、高2の始業式に、山内が校長代行を名乗って生徒の前に現れました。生徒たちが騒ぐと『黙れ!』と恫喝する。そして藤瀬校長時代に全校集会で確認したことを全部反故にすると宣言したのです」

 

 山内校長代行も麻布の出身だった。実質的に校長の地位に就き、恐怖政治が始まった。生徒たちには青天の霹靂で、教員の態度も二分した。学校は荒れたが、山内代行はさらなる強硬姿勢で押さえつけようとした。

 

 71年の文化祭で緊張がピークに達する。

 

 

前川喜平氏もいた

「10月3日、竹槍を持った武装突撃隊が文化祭に突入してきました」

 いわゆる「セクト」と関係をもつ一部の過激な生徒たちだった。このころ麻布の校内でも、中核派の反戦高協と革マル派の反戦高連の「内ゲバ」が繰り広げられたとA氏は証言する。

 

「実際はただのリンチでした。屋上で反戦高協の連中が反戦高連の2人をよってたかって。私は止めに入りました。そうしたら反戦高連の2人が言うんです。『Aくん、もうかまわないでくれ。キミたちまでやられてしまうから』って」

 

 

 一部の過激な生徒たちが武装して文化祭に乗り込んでくるという情報は、A氏にも伝わっていた。そこでA氏は信頼のおける友人を集め、「彼らに加担してはならない」と説得した。

 

「一般の生徒は彼らを遠巻きに見るだけでしたが、山内校長代行が警官隊を校内に入れると、一般生徒も激高してしまった。仕方ないから私たちも出て行って警官隊を追い返しました」

 

 10月5日、体育館で生徒約500人と教員3人による討論会が開かれた。生徒たちは山内校長代行の出席を求めたが回答はなく、昼過ぎには半数の生徒が中庭で座り込みを始めた。すると16時30分ごろ、学校は機動隊に包囲された。警察車両のスピーカーから「5時までに解散して校外に退去せよ。退去しなければ警察官が実力で排除する」との宣言があった。声の主は山内代行本人であった。

 

 17時20分すぎ、機動隊が中庭に進行。抵抗せず沈黙して迎えるようにと、約20人の教員が生徒たちに訴えた。そして翻り、機動隊と生徒たちの間に立った。

 

「根岸先生や増島先生がスクラムを組んで私たちを守ろうとしてくれて。今でも何か、涙が出てくる」

 A氏は当時の様子を思い出し、声を詰まらせる。

 

 

「みな機動隊にごぼう抜きされていくわけです。でも機動隊の人たちも『もう大丈夫だよ』『よくやった』なんて声をかけてくれるんです。彼らだって、『なんでこんな子供たちに実力行使しなくちゃいけないんだ』と思ったでしょうからね」

 

 そんな中に、前文部科学省事務次官・前川喜平氏がいたはずだ。このとき前川氏は麻布高校2年。多感な時期の原風景として、当時の様子が脳裏に焼き付いていても不思議ではない。

 

 ある卒業生が言う。

 

「前川喜平さんが出てきたとき、麻布っぽいなと直感してネットで調べたら、当たりだった。ある程度出世しているのに、ここぞというときには空気を読まずに信念を貫くところは麻布生っぽい。それでいて、出会い系の噂が出るなどの人間味もある」

「勝ったぞー!」

 10月7日から「無期限のロックアウト」となった。

 しかし、このままでは高3が単位不足で卒業できない。学校側は専門学校の教室を借りて授業を受けさせようとしたが、生徒側は「学校を開けるのが筋だ」と反発。「学外授業に反対。ロックアウトを解除せよ。高3の学年集会に校長代行が出席せよ」という要求を決議した。

 

 11月12日、市ヶ谷の私学会館で高3の学年集会が開催され、山内校長代行も出席することになった。A氏をはじめ各クラスの代表が取り仕切ることになったが、議論はかみ合わない。

 

「全校集会開催にこぎつけたいが、このまま話し合いを続けても時間切れになるだけ。ここで私はものすごく嫌なことをしました」

 

 まもなく時間切れになるとみるや、A氏たち議長団は解散宣言をした。すると納得できない連中が壇上に来て山内代行をつるし上げ、翌日の全校集会開催の約束に署名させてしまった。

「私たちはその展開を予想していた。彼らのことをある場面では否定し、ある場面では利用したわけです」

 

 11月13日、ロックアウトが解除され、全校集会1日目。大きなトラブルはなくその日は終わった。

「2日目はセクトの生徒が現れ、アジテーション演説をした。しらける生徒もいましたが、彼が学校を出たあと有栖川公園で逮捕されたという情報が伝わってきました。それで生徒たちは激高してしまって、収拾不可能となりました」

 

 立場上集会の正常運営の責任を担うA氏ら議長団は、スクラムを組んで山内校長代行を守ろうとしたが、激しいもみ合いになった。興奮した生徒たちは山内代行の眼鏡を割り、ネクタイをもみくちゃにした。抵抗を続けた山内代行だったが、しばらく目を閉じ、マイクをとると、「私は今日限りやめます」と言った。

 革命の瞬間だった。「勝ったぞー!」。グラウンド全体に歓声が響き渡った。

葛藤から抜け出せない

 しかしこの瞬間、A氏は、とてつもない無力感に襲われていたという。

「最後は暴力でことがなるのかなって。結局は暴力を利用したんですね、自分たちの手は汚さずに。特に後輩から『Aさんは汚い』と言われたことは深い傷として残りました。いっしょに闘った同志の名前も今は1人しか思い出せません。忘れようとしているんだと思います。自分の中で無意識的に。麻布の学校史も今回初めて読んでみました。抵抗があって読む気になれなかったんです」

 

 50年前の革命がなければ、今ごろ麻布は普通の進学校になっていただろう。だが、渦中にいた人物は、いまも当時の葛藤から抜け出せずにいた。その苦しみを知らず、私はA氏のことを勝手に「英雄」に祭り上げていたのだ。不覚であった。

 

「学園紛争に深く関わった連中は、やっぱり大人の汚さを感じたんですよ。理事会は無責任。無責任なものが力をもっている」

 

 A氏は浪人して大学に進んだ。

「麻布の教員って研究者か研究者崩れだから、授業が面白かった。職員室には知的なけだるさが漂っていて、あれが良くて私も教員になりましたが、間違いでした。あんな雰囲気のところなかなかないんです」

 

 山内校長代行がもみくちゃにされた全校集会の場にいたはずの前川前事務次官。彼の言動についてはどんな印象をもっているか。

 

「例の天下りの件では彼だってすねに傷があるわけで、そこを叩かれたくなければ大人しくしていたほうがいい。それでもあえてああいう発言をするのは、かなり信念に基づいているのではないかと思います。立つときは立たねばならないんでしょう、人間はね」

 

 

(下)へつづく


校則も制服も生徒会もない… 日本一自由な学校「麻布中高」が名門なワケ

 

日本一自由な学校「麻布中高」の「自由」の授け方――おおたとしまさ(下)

 自身もその卒業生であるジャーナリストのおおたとしまさ氏が、制服も校則もない“日本一自由な学校”麻布中高の学びに迫る。同校の「誰かに定められた規律によらず、自ら定めた規律に従うときのみ、自由である」という理念が確立したのは「70年安保闘争」の時代。山内一郎校長代行を辞任させる「革命」に立ち会った当事者の一人である卒業生・A氏は、「結局は暴力を利用したんですね」と、現在も当時の葛藤から抜け出せずにいた。64年連続東大合格者トップテンに入り、しかし一度もナンバーワンにならない“麻布らしさ”とは。

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 現在の平秀明校長は、A氏が卒業した翌年の73年に麻布に入学した。その年7月にも、授業料値上げに反対する生徒たちが校長室を占拠してバリケードを築くなど、紛争の余震は続いていた。平校長は学園紛争を次のように位置づける。

「創立者・江原素六はもと幕臣で、一度は新政府軍に追われ、命からがら逃げ延びた人物です。薩長藩閥政治に対抗する形で自由民権運動に参加し、麻布の校長でありながら長く帝国議会議員も務めました。その意味で、もともと麻布には体制側に与しない気骨や自主・自立の校風があったといえます。しかし、それをさらに現代化したのが、学園紛争という経験でした」

 その意味で、山内校長代行の出現は、新制麻布が江原の目指した理想に近づくための試練だったと言える。江原素六というロールモデルと、山内一郎という反面教師の両方があったことで、「麻布の自由」は絶妙なリアリティを保っているのだ。しかしそれは、紛争の中で学校を追いやられた生徒たちや、50年を経ても消えないA氏の心の傷という犠牲のうえに成り立っていることを、麻布関係者は忘れてはならないだろう。

 紛争終結後、山内校長代行派だった教員は大量に退職した。代わりに団塊世代の若い教員が、紛争後の新しい麻布の自由を形作っていった。その彼らが定年を迎え、この7~8年の間に半数以上の教員が入れ替わった。麻布のDNAの継承が、平校長に課せられた大きな使命である。

「いまの若い先生たちはまじめで優秀な人が多い。一方で、昔のがちゃがちゃした麻布のことは知りません。かといって昔話をするのも違う。優秀な若者を育てる責任を果たすために何をすべきなのかを、若い先生たちとともに考えていきたいと思っています」(同)

 

 

 

自由に生きる術を授ける

 麻布のDNAとは何か。

「一言で言うならば、権威・権力に盲従しない、しなやかな反骨精神でしょうか。麻布生には世の中に流されるのでなく、流れを変える人になってほしい。信念に生きようとすると必ずぶつかり、多くの人はそこで妥協します。でも必要なときには最後まで信念を貫く強さをもってほしい。おかしいことにはおかしいと言える人間になってほしい」

 生徒たちの雰囲気について卒業生の親はこう言う。

「カオス。地元の小学校のクラスの中で、地頭はいいけれどちょっと変わっている子を全部集めた感じ。無論、息子もその1人」

 卒業したばかりの大学1年生を集めて座談会を開催したいと思ったが断られた。理由は、

「大学への進学という環境の変化の中にいながら、まだそこまで麻布というものを包括的に説明できない。慎重に言葉を紡ぎたい」

 その答えがまさに麻布らしいと感じられる。

 自由な校風ゆえ、不祥事も少なくない。そのつど全校集会を開いたり、保護者会を開いたり、時間をかけて対応する。当事者だけを処罰しておしまいということはない。「問題を起こしてからが教育」と平校長は常々言う。

 隠れた麻布名物に、長時間におよぶ職員会議がある。そこで話されていることの多くは、問題を抱えた生徒への対応方針だ。教員同士の教育観がぶつかり合うことも多い。

 自分の信念に忠実に、妥協せずに生きる。それを貫いてこそ自由な人生。麻布は単に「自由な学校」なのではない。生徒たちを信じ、挑戦させ、失敗させ、その中から学ばせ、「自由に生きる術を授ける学校」だ。

 

 

ドロップアウトする生徒は…

 意外なことに生徒会はない。山内校長代行時代に生徒協議会が消滅して以来のことだ。代わりに予算委員会、選挙管理委員会、サークル連合、文化祭実行委員会、運動会実行委員会が生徒自治を担う。約800万円の予算を彼らが管理・運営する。

 文化祭の期間、文化祭実行委員会のメンバーが髪を緑やピンクに染めるのが、ここ20年くらいの伝統になっている。ただしそれを麻布の自由の象徴だというのは間違いである。

「みんなやっているから自分もやるという流れになっていると思いますよ」(同)

 実際、染めている本人たちもカッコいいだなんて思っていない。私に言わせればあれは、麻布生が“いい子”の仮面を脱ぐためのイニシエーションだ。

 一方、運動会へのモチベーションは低い。競技に参加せず、運動会が終わるまで教室でトランプをしている生徒もいる。不祥事が続いて運動会が中止になったことも過去に何度かある。

「運動会という組織的な活動が、麻布の学校文化と食い合わせが悪いのかもしれません。それにしたって昔は、余興的な要素を取り入れてみんなが楽しめるようにする工夫が見られました。それすらないのはちょっとさみしいですね」

 これだけ自由だと、ドロップアウトしてしまう生徒も多いのではないかともよく言われる。これに対する平校長の答えはこうだ。

「入学して早々に、上には上がいることを痛感し、ほとんどの麻布生はまず鼻っ柱をへし折られます。でもそこで、ほかの誰にも負けない自分の得意分野で勝負をしようと気持ちを切り替えます。勉強ではかなわなくてもスポーツや趣味ではあっといわせることができるというように、自分なりの居場所を必ず見付けます。異性の目がないから、オタク的なことでも堂々と極めることができます。そうして再び自己肯定感を高め、お互いを認め合うことができるようになります。だから麻布にはドロップアウトする生徒はいません」

 成績が低迷する生徒はいても、それは麻布の価値観では「ドロップアウト」とは言わないということだ。

 

 

 

種も仕掛けもある

 結局毎年、高い大学進学実績を残す。それを支えるものとして、記述式の入試問題の質の高さ、教員が作るオリジナル教材の質、教員同士が火花を散らす教科研修、社会科のオリジナル科目「世界」や「現代」、中国・韓国・ガーナなどとの国際交流、教科の枠を超えた選択講座「教養総合」、高校で学期ごとに実施される「実力試験(通称ジツリキ)」、高3の夏休みに実施される約20の大学受験対策夏期講習が挙げられる。最近では特に低学年のうちは、こまめな小テスト、宿題、補習を行い、基礎学力の定着にも力を入れている。

 進学校として盤石な地位を保っているのには、種も仕掛けもあるのである。

 ある中学生はこう言う。

「先生たちのオリジナル教材は、得意分野についてはものすごく詳しく書かれていたりして、普通の教科書より面白い」

 その母親はこう言う。

「夏休みの宿題は、自分で調べて深掘りして書くタイプが多くて、興味関心がある子供にはいいと思います。一方、興味関心が定まっていない子供には、何をしていいのかわからないままになるリスクもあると思う」

 麻布出身の早稲田大学2年生はこう証言する。

「大学の授業を受けてから、麻布の教養総合の講座のレベルの高さに気付いた。大学の授業に負けていない」

「もともと力のある子ばかりで、飲み込みが早く、プライドもある。しかもぎりぎりまで勉強していなさそうに見えた先輩が難関大学に入っていくのを毎年間近に見ていますから、自分もきっとそうなるんだという暗示がかけられます。現役で力を発揮できるかどうかは微妙なのですが、一浪すれば少なくとも第2志望あたりには入ります」(同)

 麻布生の大学入試突破力は、ある種の集団催眠によるものかもしれない。

 その催眠状態が卒業して何十年たっても続くのだろうか。麻布出身者の多くに共通する悪い癖は、一度母校自慢が始まると止まらなくなることだ。

 

「週刊新潮」2017年9月21日号 掲載